おおい町暦会館

収蔵資料

京暦きょうれき

天明五年[1785年]の京暦

京暦は室町時代から存在し巻暦形式が一般的であった。弘所は大阪・金沢・名古屋にもあり伊勢暦に次ぐ版暦数を誇っていた。写真の暦の版元・院御経師いんのみきょうじ「菊澤藤蔵」家は慶長十八年[1613年]から京暦の製作頒布に加わった。京暦の版元は院御経師の他、暦屋の総元締として大経師(浜岡氏、のちの降屋内匠)、幕末に加わった中嶋利左衛門・河合弥七郎の計4名である。

南都暦なんとれき

南都暦  

「奈良暦」ともいう。主に綴り暦である。当初は賀茂家の後裔幸徳井家によって土御門家の了承のもとに刊行されていたが、後になって陰陽寮長官で陰陽頭である土御門家より陰陽師の許状を受けた奈良陰陽町に住む暦師により刊行された。主に春日大社の講組織を通じ大和・伊賀地方に配られていた。

伊勢暦いせれき

伊勢暦

お経本に似た折本スタイルの暦。土御門家から朝廷を経て天皇より直接伊勢神宮祭主に原稿が下付された。作られた暦は神宮の御師(おし)が大麻(お札)と共に全国に配って歩いたもので現在の神宮暦のルーツともいえる。

 

具注暦ぐちゅうこれき

具注暦  

古くから陰陽寮おんみょうりょうで用いられてきた形式の暦。日時・方位の吉凶や禁忌といった暦注が、全て手書きで記されており、日々の行動の指針や日記の記録に用いられた。毎年11月1日に暦博士から朝廷に暦を奏上する「御暦奏ごれきそうの儀」が行われ、その後朝廷から貴族へと頒暦がなされた。写真は天正6年[1578]〜天正7年[1579]の暦

引札暦ひきふだごよみ略暦りゃくれき

引札暦

上の写真は代表的なデザインの引札暦です。広告文と略暦と錦絵の三つに紙面が区割りされています。広告文は「薪炭諸油、和洋酒類、下鴨佐竹商店」とあります。その広告文を挟んで、右に新暦、左に旧暦が記載されています。明治6年から太陽暦が採用されるようになりましたが、庶民の日常はまだまだ旧暦から離れることが出来ませんでした。そこで、暦には旧暦を併記することが普通でした。また、官公庁や公立の学校では日曜日が休日と定められたために、右下に「日よう」表が載せてあります。また左の旧暦を「宣統四壬子年清暦」と表記しているのは、明治の終りに政府が暦の旧暦併記を禁止したために、旧暦という名称を避けて「清暦」と記載して官憲の取り締まりから逃れようとしました。上段の錦絵は、教訓的な絵です。絵の右上には「精神、一たび至らば、何事か成らざらむ」と書かれています。絵の内容は、小野道風(平安時代の書家)が、雨の中散歩に出かけると、柳に飛びつこうと、カエルが何度も挑戦している姿を見つけ「カエルは馬鹿だ、いくら飛んでも柳に飛びつけるわけがない」。その時、強い風が吹いて、柳がしなり、カエルは見事に柳に飛び移ることが出来きました。道風はこれを見て心を打たれ、以後懸命に努力して、書道の基礎を築いたという逸話を絵にしたものです。精神力があれば道が開けてくるという教えです。ただし、この絵の柳の葉は、すべて小判になっています。一枚刷りの略暦に広告を入れ得意先に配るのは幕末頃から始まったといわれています。

大小暦だいしょうごよみ

大小暦大小暦の解説

江戸時代は、掛け売りが一般的でした。集金は盆暮れの節季払いや月払い等がありました。月払いの場合、月末を知る必要があります。現在運用している太陽暦では、月の大小は毎年一定です。江戸時代の暦では、大の月が三十日、小の月が二十九日です。旧暦の月変わりは新月を基準としていますので、月の大小は年によって違います。当時、日々の吉凶を記載した仮名暦等が出版されていましたが、庶民は月の大小が一目でわかるような簡便な暦を欲していました。さらに、江戸期は何かにつけ、機知・滑稽が尊ばれました。例えば上図『猿使いの図(安政6年己未[1859])』は、右の猿使いが大の月、左の猿が小の月を表しています。夫々の図の中に正月から十二月を書込んでいます。このように、娯楽性をも加味した様々な大小暦が作られるようになりました。

  

遠眼鏡とおめがね

中国系の物に日本の技術を取り入れた遠眼鏡。飛来一閑の考案とされる一閑張(漆や糊で和紙を張り重ねる)技法で作られたもの。遠眼鏡は天体観測の他、測量や軍事目的にも使用された。江戸時代の天文学は、現代の水準で見れば幼稚なものであるが、当時では中国系・西洋系ともに極めて画期的であったことが推察される。

  

版木を利用した煙草盆たばこぼん

暦の版木でつくられた煙草盆。不要になったその年の版木は、小箱や煙草盆といった細工物に再利用されることもあった。江戸の町人の間で一時期これらの小物の収集が流行った。

  

渾天儀こんてんぎ(復元模型)

   

渾天儀は天体の位置を観測する天文器具で、一番外側から天地四方を象る「六合儀」、極軸で回転する「赤道環」、「黄道環」、極軸と黄道軸で回転する「白道環」の四重の環と、中心に地球の模型を持つ。渾天儀の発明は古くエラストテネスであるといわれるが、西洋天文学が東洋に伝わった1700年頃には、中国における最も代表的な天文器具であった。この渾天儀が中国から日本へ文政年間(1819~)に伝わり、惑星の位置関係など、暦、時刻にかかわる研究に用いられた。