泰重卿下向

西暦1500年代、陰陽宗家土御門安倍有宣ありのぶ(永享5年[1433]〜永正11年[1514]2月13日)・有春ありはる(文亀元年[1501]-永禄12年[1569]6月19日)・有脩ありすえ (大永7年[1527]〜天正5年[1577]正月2日)の三代にわたり、京の戦乱を避け所領である名田庄なたしょう納田終のたおいに居住していました。有脩の子・久脩ひさなが (永禄3年[1560]〜寛永2年[1625]6月18日)は、慶長5年[1600]の関ヶ原の戦いの後、京に帰還しました。久脩の嫡男・ 泰重やすしげ(天正14年[1586]1月8日〜寛文元年[1661]8月19日)が14歳の時でした。それから25年後の寛永2年[1625]7月、泰重は弟の倉橋(泰吉)と和泉(済仲)とともに旧地名田庄納田終を訪れました。この地は小浜藩主京極きょうごく忠高ただたかの時代でした。泰重は前月6月18日に父・久脩を亡くしています。久脩の忌の期間を利用した旅行だったのかもしれません。
宮内庁書陵部には、泰重の日記が保管されています。その日記を「株式会社続群書類従ぞくぐんしょるいじゅう完成会」が翻刻出版しました。以下はその抜粋です。又、泰重一行の行路については、日記の他、国立公文書館アーカイブ『天保國絵図若狭國』『天保國絵図丹波國』『天保國絵図丹後國』『天保國絵図山城國』も参考にしました。

系図

加茂神社所蔵『禁制』

加茂神社蔵禁制

禁制 土御門二位有宣知行分若州遠敷郡
名田庄上村納田給
一、軍勢甲乙人乱入狼藉事付相懸非分課役
一、伐取竹木付刈田狼藉事
右条々堅被制止訖、若有違犯輩者、
可⩗被⩗処厳科之由、所⩗被仰下也、
仍下知如件

天正十年三月三日
対馬守 平朝臣(花押)
美濃守 藤原朝臣(花押)

寛永2年[1625]7月

七月十日、丙辰、晴

従若州百性(姓)二人、彦左衛門・僧一人上、御下向之由有難存之由申候て上也、種々御馳走振舞之事申付候、盆目出度事、倉橋・光春院皆々呼申候、出入町人四人振舞也

自分が下向することを知り、納田終の百姓二人、彦左衛門、僧一人」がそのお礼を述べるために上洛した。上洛した彼らにご馳走を振る舞うよう命じた。盆は目出たい事だ。倉橋や光春院達を家に招いた。出入りの町人四人にも振舞った。

◆「彦左衛門」は7月22日11月11日の日記にも登場しています。

七月十一日、丁巳、晴

若州者今日下申候、兵粮申付遣候、盆用意共申付候、若州下用意、帯帷子七、帯十五筋、皮蹈廿三、扇子百本、用二季算用艮子過分相渡、」方々かけ共也、退屈申候、

昨日上洛した納田終の者達が帰郷した。彼らに食料を持たせた。盆の用意、旅先で振舞う金品の用意をする。帯帷子七、帯十五筋、皮蹈廿三、扇子百本、用二季算用銀子。方々と掛け合った。あとは退屈した。

◆「用二季算用艮子」は報償用の銀子。用意した品々の一部は納田終逗留の7月22日に振る舞っています。

七月十二日、戊午、晴、

亡妻命日、林太来、相伴、用意事外取紛申候、御經巻書付なと仕候、若州下申候、五輪見に参候て、調銘共切セ申候、駄質(賃)馬三疋分艮子廿七匁相渡也、

亡妻の命日。林太が来て相伴する。用意が事の外、取り紛れた。御經の巻書付等をした。若州に運ぶ五輪塔を見に行った。調銘を彫るよう命じた。その五輪塔の運搬費用馬三頭分として銀子二十七匁を支払った。

◆「御經巻書付」とは、6月18日父久脩が死去した事に関連すると思います。6月21日「法華経八軸筆立始也」とあり、以後日記には時々法華経書写をしていることが記載されています。そして7月9日「法華経八軸齋前終」とあります。そして本日、写した法華経を軸にしている、ということでしょうか。◆間に「、」がありますが、「若州下申候」が「五輪」にかかると判断しました。五輪は、7月18日御墓所の修理のために準備したものでしょう。

七月十三日、己未、晴、

見廻衆来候、助左衛門八木三斗遣候、

見廻衆がやってきた。助左衛門に米三斗を与えた。

七月十四日、庚申、晴、

盆、將来まつる也、如常、午前林太来候、経よミ焼香[己と十]、酒進、布施鳥目二百遣候、晩倉橋参、及雞鳴庚申待帰宅也、

盆だ。蘇民将来を祀る。いつもの通り、林太が来て御経を読み、焼香を終えた後、お酒を進めた。お布施代として二百与えた。晩には倉橋が来た、一緒に庚申待で夜を明かし、帰宅した。

◆林太は僧侶でしょうか。

コトバンク引用文鳥目ちょうもく:銭の異称。また、一般に金銭の異称。江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからいう。現在は多く「お鳥目」の形で用いる。

七月十五日、辛酉、晴、

将来まつる也、飯後礼者有之也、倉橋御出、強飯・鯖すハリ(楚割)、祝義酒盃如常、明日罷立用意、道具共つゝらに入、人共支度申付候、五輪つゝミ用意、午下刻大雨降也、

蘇民将来を祭る。食事の後、礼者が来た。倉橋が来て、強飯・鯖の楚割、祝儀の酒杯はいつも通り。明日の旅立ちの用意、旅道具等を葛篭に入れる。また、召使達にも、旅支度をするように命じた。五輪塔も運搬するため梱包した。昼過ぎ大雨が降る。

◆納田終にある先祖御墓所の改修を泰重は計画しています。「五輪」はそのために用意した物だと思います。ただ、亡父久脩のために用意した五輪塔かもしれません。

コトバンク引用文強飯こわめし:おこわ,こわいいともいう。米をせいろうで蒸した飯のこと。赤飯や,豆を入れたものもあり,祝事,慶事の食事として,水に浸して炊く軟らかい飯に対して区別されてきた。コトバンク引用文楚割すわやり:…古代日本では〈からもの(干物)〉と呼び,生鮮魚貝類の少なかった平安京では副食品としてきわめて重要であり,《延喜式》によると都の西の市には干魚の店もあった。削って食べるものが多かったため〈削物(けずりもの)〉の称もあり,干鳥(ほしどり),楚割(すわやり),蒸蚫(むしあわび),焼蛸(やきだこ),干鯛(ほしだい)などは宮廷の宴会には欠かせぬものであった。干鳥は鳥肉とくにキジを干したもの,楚割は魚肉とくにサケを細く切って干したもの,蒸蚫はアワビを蒸して干したもの,焼蛸はタコを石焼きなどにして干したものであった。

七月十六日、壬戌、晴、

若州へ下向申候、蓮臺野通、長坂越也、三人同道、今宿宮脇ト云所泊申候、川勝七右衛門案内者也、今日路次山坂事外嶮難驚申候、

若州(納田終)に旅立つ。蓮台野通り、長坂越えだ。三人同道だ。宮脇という宿場町で一泊した。川勝七右衛門が案内してくれた。今日の行程がとても険しいものだった。

◆「三人同道」の三人とは、泰重本人と弟の倉橋泰吉(倉橋家初代)と五辻済仲(五辻家へ養子、日記では和泉とし登場)。

七月十七日、癸亥、晴、

丑刻罷立、午後のたをひに付申候、一里半ほと迎出申候、十町十五町ほと百性(姓)百人不残罷出申候、事外存之外、馳走躰殊勝千万之事也、鍛冶屋と申百性(姓)所へ付申候、打付振舞申候、出家共礼来候、明日在所中とき振舞可申候由申候、

午前2時頃宮脇を発ち、午後に納田終に着く。6キロ程手前で迎えの者がいた。沿道には1キロ程にわたり百姓100人・村総出で出迎えてくれた。思いがけない歓迎だ。心を打たれた。鍛冶屋という百姓所に着いた。すぐに振舞った。出家共が礼に来た。明日は皆に振舞うと伝えた。

◆当時は、國境堀越峠(或は棚野坂峠)の手前に大及村がありました。現在は無人です。『天保國絵図丹波國』には「大及村より若狭國納田終村まで壹里貳拾四町十七間」とありますので、「一里半ほと迎出申候、」の迎出た場所は大及村になります。

七月十八日、甲子、晴、

出家六人、地下老寄分十八人、一座ニ居申候、残百性(姓)男女共四百人ほと別之家にて用意仕、振舞仕候、御酒をハ見所にてのませ可申候由申候て、男分百廿人ほとに、座敷三行ニ双、酒のミ申候、汁器にて三盃、」二盃四盃五盃のも四分一あるへし、驚耳目候大酒也、馬樽五つのミあけ申候、先祖御墓所 一段上方 地筑 石墻に 仕なをさせ申候、とり井木山より切て 百性(姓)共来、あらとり百性(姓)共仕候、事外達者なる躰、事外忝かり、地下中女男老若共 頭傾有難之由申候て おかミ、たつ拜、存之外あかめやう驚、召使候者共驚申候、ひし(非時)にも僧六人来、相伴也、

僧6人・有力者18人は同じ家で、別の家では百姓男女400人程にご馳走を用意して振る舞った。特に男120人には見所でお酒を振る舞った。相向かいで三列に座った。百姓の酒杯は汁器。まずは皆で(そこそこ統率のとれた形で)三杯飲み干した。後は二杯、四杯と飲み、五杯飲み干す者は全体の四分の一に達していた。馬樽五つ飲み空けてしまったのには驚かされた。
それから先祖御墓所の改修を百姓たちにさせた。今の位置より少し上方に築地して石垣を積み直した。そして、(玉垣をするために)「とり井木山」より木を切り出し作った。要領のよい働きぶりだ。墓所改修が終えた後、地下の女男老若は、頭を傾け「有難い」と言って拝礼している。意外と信仰厚い、また作法を知っている地下の者たちに、召使達も驚いている。非時(精進料理)を僧六人と相伴した。

◆「ひし(非時)」「精進」「つとめ」は、納田終逗留中・旅行中の日記によくでてくる言葉です。父・久脩の忌の期間だからか、或いは日常的に精進はしているが、逗留中は特に仕事もなく日記に記載することも少ないので、日頃は日記に書いていない「ひし(非時)」「精進」「つとめ」書いたのかもしれません。

七月十九日、乙丑、晴、

二位殿(有春)命日、靈供二備、僧六人来候、つとめ過とき相伴申候、薬師堂参納涼、終日くらし申候、ひし(非時)六人相伴、さとう(座頭)来候、

二位殿(有春)の命日、お供え二膳。僧六人が来て、勤行を終えて相伴した。納涼のため納田終薬師堂で終日過ごした。ひしを(先ほどの)僧六人と相伴した。座頭がきた。

◆有春の没年は永禄12年6月19日。◆今日7月19日は、グレゴリオ暦では残暑厳しい8月21日。◆「ひし」は精進料理。父・久脩が6月18日に亡くなり、忌の期間で度々でてくる言葉。7月25日の忌明けでは「今晩魚味食初申候」とある。

七月廿日、丙寅、晴、

僧六人相伴、さとう来候、今日小濱へ爲見物、予・倉橋・和泉同道申候て罷出候、事外雨天也、路次難所也、頓而晴、未刻許参着 かたのり濱へ舟にて參付、見候かたのり取申候、事外遊興不浅、此中」之鬱気散申候、一宿やとへ二百、助左衛門二百遣候、

僧六人と相伴する。座頭が来た。今日は小浜へ見物のため、自分、倉橋、和泉と三人で出かけた。雨降りの中、路次は難所だ。急に晴れた。午後二時頃小浜に着き、かたのり濱へは舟で行った。かたのりを見つけては取った。大いに遊び、憂鬱が晴れた。小浜で一泊、宿賃が二百、助左衛門に二百払った。

◆「かたのり」は北海道、日本海、大平洋北部でよく見られる海藻で、地方により現在でも食用となっています。泰重の鬱気は、父の死から間もないためか。それとも蒸し暑い気候のせいかもしれません。◆助左衛門は地元の案内者か、それとも7月13日の日記に登場する「助左衛門」と同一人物ですか。

七月廿一日、丁卯、晴、

早天ニ罷立、のたをひへ帰申候、巳刻許事外大雨降、全身ぬれ申候、午過帰着申候、ひし六人僧・さとう相伴申候、

夜明け直ぐ小浜を発ち、納田終に帰ろう。午前10時頃大雨が降り、全身濡れた。昼過ぎに帰り着いた。ひし(精進料理)六人僧と座頭が相伴した。

七月廿二日、戊辰、晴、

清春院殿(有脩室)命日、六人僧衆相伴申候、今晩在所年寄分者十八人、極上袋一ひかせ 振舞可申候約束にて未刻皆来、夕飯御酒過時分予ハかり薬師堂より下、茶をたてのませ申候、皆辱かる事無限候、茶うけふ(麩)也、帯・帷子・蹈皮・扇取合い、皆とらせ申候、彦左衛門艮子廿目、かちや宿にも同廿目、單物・帷子遣候、宿のむすこ女房帯・たひ遣候、弥介十匁遣候、上谷川十匁、下谷川十匁遣候、帯など相添也、たん別當・さかもと・こんのかミなどにハ 帷子一ツゝ遣候、残ハいつれも同前也、予・出家衆ハ薬師堂にて晩炊」食申候、薬師堂へ忝之由申候て来、庭にて礼申候て帰申候、

清春院殿(有脩室)命日、六人の僧と相伴した。今晩、極上袋を敷かせ、事前に約束した通り、村の有力者十八人に振舞いを行うことになっている。午後二時頃、皆やって来た。彼らが夕飯をとりお酒を飲み終わった頃をみはかり、薬師堂を出て、彼らが待つ家に行った。茶をたてて、彼らに飲ませたところ、とても恐縮していた。茶菓子は麩である。
この日の為に用意した、帯、帷子、皮足袋、扇を皆に与えた。彦左衛門には銀子二十目、宿にしている鍛冶屋にも銀子二十目・単衣物・帷子を与えた。宿の息子女房には帯・足袋を与えた。弥介十匁与えた。上谷川には十匁、下谷川には十匁与えた。帯等を添えた。たん別當・権守等には、帷子一づつ与えた。残りの方々にも同様に与えた。
自分と出家衆は薬師堂に戻り夕飯を食べた。先ほど振る舞った村の衆十八人が「有り難うございました」と薬師堂の庭から礼を述べて帰った。

◆村人への振舞いの準備は、7月11日にしています。◆上谷川・下谷川・こんのかミ(権守)の名前は、慶長五年[1600]の棟札(加茂神社蔵)に登場しています。また、棟札の筆者玉泉坊は、11月11日の日記に登場しています。泰重卿下向より25年前です。代替わりしているかもしれません。

加茂神社蔵慶長五年棟札加茂神社所蔵『慶長五年棟札』
<表>
のふや中務禰宜
南平衛門祝巫
大工棟梁藤原宗清次郎左衛門并孫四郎
封法 仏風災慶口
[梵2]水災 金 
[左:口,右:急]急如律令 五芒星敬白
封身 蓮火災報意
納田給村諸檀那 南権守 源左衛門尉
慶長五庚子年十一月初十日村人等

<裏>(写真右)
右奉造立鳥居信心檀那並女大施主等 
各息災延命福寿増長家内安全子孫繁昌
五穀成就公私太平富貴長久到精誠旨如件
新屋 馬之大夫 大下次郎三郎
上谷川 新左衛門尉 次郎助
下谷川 次郎右衛門尉 麹屋
筆者玉泉坊
慶長五庚子年十一月初十日

七月廿三日、己巳、雨気、

今朝つとめ過、予三人ハ御墓所へ参候、焼香、念仏、僧共れんけし(楞嚴咒)よみ申候、今朝下地惣中振舞申候、五百人許、昼相濟申候、予三人昼時分皆すミ候てとき食申候、其以後六さい申候、晴天、

朝の勤行を終えた後、兄弟三人は御墓所に参る。焼香、念仏、僧達がれんけし(楞嚴咒)を唱えた。朝から村の衆約500人にご馳走を振る舞った。村人達が昼食を終えてから、私達兄弟三人が食事をした。その後、六斎念仏を唱えた。晴天。

七月廿四日、庚午、晴、

作右衛門・八大夫・助市・甚二郎・甚四郎、以上五人帰申候、僧六人つとめ過御墓所へ参候、毎度素服にて焼香、経ある也、同道とき相伴申候僧相伴如常、

明日の帰京に先立ち、召使の作右衛門・八大夫・助市・甚二郎・甚四郎、以上五人を京に帰した。僧六人と勤行、その後墓所に参る。いつも通り、素服で焼香、お経。同行している僧といつもの通り相伴する。

泰重卿野詩泰重卿直筆漢詩

七月廿五日、辛未、雨天、

四十九餅相備、今朝四十九日の忌あけ、法華経よミ、其以後れんけし(楞嚴咒)・大悲し(咒)如常、其以後御墓所参、結願、御暇乞焼香、念仏、詩一首作ス、
縱身雖止洛陽城、
魂領故郷威命貞、」
仙窟松風禪定地、
真如妙典捴溪聲、
如此野詩一首、懇情哀傷之至依難默、不顧襪才書之備牌前、可憐生〻〻〻、とき過罷立候、大雨事外也、雖然三月越候条帰京いそくの故罷立、高濱に着申候、丹後文殊拜堂之志深、因之如此候、今晩魚味食初申候、一宿申候、

四十九餅を供え、父・久脩の四十九日の忌明け、法華経・楞嚴咒・大悲咒を唱えた。その後御墓所へ行き、結願、お暇乞いの焼香をし念仏を唱えた。詩を一首作る。
この身は京に在るけれど、
魂は故郷ふるさと彷徨さまよい続けている。
仙窟せんくつ松風しょうふう、まるで禪定ぜんじょうの地のように目に映り、
渓流のせせらぎも真如しんにょ妙典みょうてんのように聞こえる。
この野詩一首は、懇情こんじょう哀傷あいしょうが極まり黙っていられなくなり、非才を顧みず作詩、墓前に供えた。憐生すべし、憐生すべし。帰らなければ。大雨が降ってきた。「三月越」を考慮して忌み明けを済ませた。(もう仕事が出来るので)帰京を急ぎ発つ。高浜に着いた。以前より丹後文殊を拝みたいと思っていた。それが叶う。今晩、(忌明け後)初めて魚を食べた。一泊した。

◆「四十九日の忌あけ」は「三月越」を考慮して繰り上げたようです。以下は久脩死去前後、泰重の日記に記述されていた事です。

  • 寛永2年3月9日 久脩江戸へ出立
  • 4月25日 久脩江戸から帰洛。(江戸で「膈 カク」という病を発症していた事を知る、以後頻繁に久脩邸に見舞いに行く)
  • 5月15日 久脩、従三位勅許
  • 6月11日 久脩病状急変
  • 6月13日 久脩自ら形見を選定。泰重、久脩邸に泊る
  • 6月15日 久脩、泰重の邸宅に移す
  • 6月16日 久脩危篤
  • 6月18日 久脩死去(1日後)
  • 6月19日 火葬(2日後)
  • 6月21日 法華経八軸筆立始
  • 6月24日 葬場準備
  • 6月25日 真如堂にて葬礼(8日後)
  • 7月2日 二七日法要(14日後)
  • 7月8日 三七日法要(20日後)
  • 7月9日 法華経八軸前終
  • 7月25日 旅先・納田終で四十九日の忌明け(37日後)
  • 8月1日 真如堂松山院(久脩)の五輪敬拝(43日後)
  • 8月7日 七七忌(49日後)
  • 8月14日 御番出仕
  • 8月19日 御番出仕
  • 8月24日 御番出仕
  • 9月14日 除服出仕勅許
  • 9月28日 百箇日施餓鬼
  • 寛永3年6月18日 真如堂で一周忌法要

◆「三月越みつきごし」:「三月またぎ」と称して「中陰が三ヶ月にまたがってはいけない」として三十五日忌の小練忌に大練忌の法要を勤め、忌明けとするという俗習が存在する場合がある。・・・「三月越候条帰京いそくの故罷立」とは、以上のことにより既に忌は明けた。だからもう仕事が出来るので早く帰京しよう。実際に8月4日に「三月巳日御祓」という仕事を請取っています。◆「可憐生〻〻〻」はどのような現代訳にすればいいのでしょう。◆「今晩魚味食初申候」とはどういう意味でしょうか。7月15日には鯖すハリ(楚割)を食べています。鯖の楚割は魚の範疇ではないのでしょうか。それとも「今晩魚味食初申候」は父久脩の忌明けとは関係なく、初物という意味で、または、泰重がこれまでに食べた事がない種類の魚を食べたという事でしょうか。

「巳の日の祓い」:毎年三月に土御門家が将軍に調進するお祓いの札…京都女子大の梅田先生よりご指摘

七月廿六日、壬申、

夜中罷出候、少雨氣、未明晴、今朝精進申候、午前にたなへ(田邊)に參着、中食、舟用意則乘て文殊へ越候、終夜舩中臥、未明ニ文殊堂ニ着、舟よりあかり手水盥嗽、文殊堂内陣開、直敬拝信心不淺候、二十疋開帳錢也、きれと(切戸)・なりあひ(成相)・くろ崎・かな崎、海路路次すから見物申候、」又一宿申候、

夜中に高浜を発つ、小雨、未明には晴れた。朝は精進した。午前に田辺(西舞鶴)に着き、昼食。舟を用意して丹後文殊堂に向かった。夜は船中で横になった。(27日)未明に文殊堂に着いた。船中で顔を洗った。文殊堂の内陣を開けてもらった。心より敬拝した。開帳料二十疋支払った。切戸、成相寺、黒崎、金崎と船中から見物した。(田邊に帰り)一泊した。

七月廿七日、癸酉、晴

文殊風景不殘見物、ミやすにて朝飯食、只今造作半城見物、又本の舟ニ乘、たなへニ歸、若年之時住居申候所、又城なと見物 一宿申候、今日午下刻大雨、舩中にて逢迷惑申候、

文殊堂近辺の風景は残らず見物した。宮津で朝食をし、造作半ばの宮津城を見物した。乗ってきた元の舟に再び乗り、田辺に帰った。若い頃に居住していた旧所や、田辺城等見物して一宿した。田辺に帰る船中では昼過ぎに大雨をあい難儀した。

七月廿八日、甲戌、晴

たなへを立歸路、日出時雨降也、まつら一里、うへ杉一里、山か(山家)村二里、谷出羽(衛友)居所也、よこたうけ(横峠)ある也、ハら行過九艭たうけある也、二里、從是周路まで五里、川勝七右衛門所へより、女房衆對顏、金子壹分判二きれ參候、蹈合悪敷候故内不入、直しうろ(周路)へ參候、倉橋・和泉宿取て被居候、七右衛門振舞道具持て御出候、今宵此中のことく七右衛門、皆同宿申候、種々馳走也、

田辺を発ち、帰路に向かう。日出時に雨降る。まつら(真倉)、この間の距離一里。上杉、この間の距離一里。山家村、この間の距離二里。山家村は山家藩主谷出羽(谷衛友)の城下。ここまでたどり着く迄に横峠があった。ハら(和田)にたどり着く迄に九艭(草尾)峠があった。この間の距離二里。(ここまで合わせて六里)ここからあと五里で京に帰り着く。途中で川勝七右衛門の家に寄って女房衆と対面した。金子一分判を二枚与えた。足元が汚れている(或は、自分か七右衛門が穢れている)ので、七右衛門の家には上がらず、直ぐに帰路に向かった。倉橋・和泉が宿をとり私を待ちかまえていた。七右衛門も後から振舞道具を持ってやってきた。七右衛門や兄弟三人、同宿してご馳走を食べた。

◆行程については『天保國絵図丹波國』を参考にしました。わざわざ「谷出羽(衛友)居所也、」と記載したのは、武家でありながら、公家との親交が深かったためでしょう。◆「倉橋・和泉宿取て被居候、」ということは、倉橋と和泉の兄弟は帰路同道していなかったのでしょうか。◆川勝七右衛門は和田村に住んでいるのでしょうか。やはり田邊から和田村の何処かに住んでいると判断しなければいけないのでしょうか。◆七右衛門が宿に持参した振舞道具とは何かわかりません。
◆踏合(ふみあわせ):死者・出産などのけがれたものに行き合うこと。また、それを忌むこと。

七月廿九日、乙亥、雨天

かめ山にて中食、人馬共ゆるりとやすミ申候、晡時上洛、自他留守中無事満足申候、

亀山(亀岡)で昼食。この地で人馬ともゆっくりと休憩をとった。夕方京にたどり着いた。無事に旅行を終えた自分達、また留守中は何事も無く満足だ。

寛永2年[1625]11月

十一月八日 癸丑、晴、

昨今寒也、晩若州のたおひ(納田終)の百性(姓)七人為見廻のほり候、俄ニ振舞の用意申付候、予女院御所へ見廻」伺公仕候、

近頃は寒くなってきた。晩、納田終の百姓七人が(見廻りの為に?)上洛してきた。彼らに馳走を振舞ように命じ、自分は女院御所へ見廻へ行く。

十一月九日 甲寅、晴、

事外寒也、飯後予ハ御番伺公申候、今日古今集御講談八条殿(智仁親王)被遊候、則御傳受之御事也、若狭百性(姓)逗留也、晩炊時分退出、夕飯以後又御番伺公申候間、御前今日古今御再見也、御精候ハんかと御笑止存候、

本当に寒くなってきた。食事をとり御番伺公出仕。今日は八条宮はちじょうみや智仁としひと親王しんのう後水尾ごみずのお天皇に古今集を伝授する。納田終の百姓が逗留している。晩、食事時に退出した。自宅で夕食をとった後、また御番伺公した。再び古今集を伝授、(天皇の)ご精励には驚かされます。

◆御所伝授の成立について(小高道子著)によれば、泰重は古今集伝授の日次勘文を行っています。また、八条宮は以前から後水尾天皇に和歌の指導をしていた。

十一月十日、乙卯、晴

若州百性(姓)振舞申候、倉橋・和泉御出也、飯過伊予来候、まひ二番所望百性(姓)共きかせ申候、伏見ときわ・ワた也、

逗留中の納田終の百姓にご馳走を振舞う。倉橋や和泉も来た(呼んだ)。食事が終わって伊予が来た。伊予に舞を二番 百姓に見せるようお願いした。演目は「伏見常盤」「和田酒盛?」だ。

■…舞をしたのは伊予ですね。

十一月十一日、丙辰、晴、

飯後百性(姓)共歸國申候、玉泉ニ而もワけさ(輪袈裟)、錢二百遣候、彦左衛門錢五百遣候、鍛治屋」錢三百・艮子一兩判一遣候、別當父子三百ツヽ遣候、殘荷持百性(姓)三人三百遣候、さかもとの權のかミに唐物今たきの皿十、のたおひ出家四人にさたう桶壹ツヽことつて遣候、

食事をとった後、納田終の百姓は帰っていった。玉泉に輪袈裟と銭二百を与えた。彦左衛門には銭五百を与えた。鍛冶屋(納田終逗留時の宿)には銭三百と銀子一両判を一つ与えた。別當父子には銭三百づつ与えた。荷物持の百姓三人には(合わせて)銭三百を与えた。そして、権守に唐物今たきの皿十枚、出家四人には、砂糖桶一つづつ言託けた。

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